黎明

 ―――なぜか、不安になる。
 ココロにぽっかりと空洞が出来たような、そんな不安感が
 ボクを包み込む―――
 何も不安なんて無いはずなのに、何かが足りない。
 大切な、大事な、けして忘れてはいけない、「何か」。
 それが一体何なのか―――思い出せない。

 【女子生徒の声】水姫、水姫。
 【女子生徒】朝霧…またぼーっとしてんの?おーい、起きてる?

 水姫は数人の友人の呼びかけに、文字通り、はっとした。
 どうやらいろいろ考えてて周りが見えてなかったようだ。

 【水姫】あ、安倉ちゃん、優子ちゃん。どーしたのさ。

 安倉―――安倉真奈<あくらまな>と優子―――斉藤優子<さいとうゆうこ>は
 顔を見合わせて肩を竦める素振りを見せた。

 【安倉】どーしたのさ、じゃないよ。さっきから呼んでたのに。
 【優子】前からそうだったけど、最近の水姫は特にボーっとしてるわね。
     ボーっとレベルが何段階もアップしてるみたい。
 【安倉】寝てたのか?
 【水姫】むううっ!そんなことないぞ!!
     ちゃんと起きてるってばっ。

 ほっぺたをぷく、と膨らませて抗議する水姫だが、さっきまで
 ボーっとしていたので全然説得力がない。

 【安倉】ホント、…朝霧は沙姫がいないとだらだらだね。
 【優子】そうねえ。―――そーいや、沙姫ちゃんどこに行っちゃったの?
     …って水姫に聞いても分らないか。
     ボーっとしてたし。
 【水姫】あう、分んないや。どこ行っちゃったんだろ、沙姫お姉ちゃん。

 きょろきょろと教室内を見回すが―――それらしい姿はない。
 あの長く艶やかな黒髪はすぐにわかるはずだが―――
 と、このクラスでもう一つの長く黒い光沢を持った髪が近づいてきた。

 【水姫】あ、ごぜーん。

 ごぜーん、とは人の名前ではない。―――が、あだ名だ。
 御前…西京極静<にしきょうごくしずか>はその振る舞いやらなんやらで御前と呼ばれている。
 その御前がにこやかに微笑を携えながら――静々とやってきた。

 【御前】どうしました、水姫。
 【水姫】んー、沙姫お姉ちゃん見なかった?いつの間にか
     どっか行っちゃって。
 【安倉】いつの間にか、じゃないだろ、朝霧。
     お前がボーっとしている間に、だよ。

 確かにそのとおりなので、水姫は反論できずに、とっても
 複雑な表情を作り、ぐっと黙り込んで頷いた。
 それを見て微笑む御前。
 安倉と水姫のやり取りから全てを悟ったようだ。
 全て―――といっても、水姫がボーっとしていた、と言うことだけだが。

 【御前】さて…教室の入り口ですれ違ったのは覚えておりますが
     どこに行ったのかまでは―――わかりませんわ。
 【水姫】そっか。んー、それじゃ探しに行かないといけないなぁ。
     でもなぁ…ボク用事が在るし…。
     もしお姉ちゃんが帰ってきたら、教室で待ってて、って
     言っててくれるかな?

 安倉と優子、そして御前を交互に見上げる。

 【優子】いいわよ。でもね、水姫―――。報酬は結果報告でヨロシク。

 結果報告―――水姫はこの後、屋上に呼び出されているのだ。
 決闘の類ではなく―――男子生徒からのお呼出。つまり―――

 【水姫】ううー、だからね、それはー!
 【安倉】どうせまた断るんだろ?まったく…贅沢なやつだな、朝霧はっ。
 【水姫】あががー!

 安倉のヘッドロックに変な呻き声を上げる水姫。
 案外キまっている。

 【御前】まぁ、内容はともかく―――沙姫が教室に戻ってきたら
     伝えておきますわ。だから安心していってきなさいな。
 【水姫】う゛、う゛ん、あり、が、が
 【安倉】あ、締め過ぎた。

 まぁ、そんなこんなで―――呼び出された屋上に向かう水姫だった。


 ■蒼華学園―――屋上・放課後■

 屋上には―――既に水姫を呼び出した男子生徒が立っていた。
 俯いたり空を見上げたり――忙しない動きだ。
 屋上の端に―――、その男子生徒のところに足を進める。

 【水姫】お待たせ…しちゃったかな。
 【男子生徒】あ、ああ、いやっ、俺も今来た所だから…。
        ―――そ、その、…手紙、読んでくれたんだな。

 手紙を下駄箱に入れるという古典的な方法を取ったこの少年、
 その手紙に思いの丈を思いっきり書き綴っていた。
 男子生徒の問いかけに、水姫がこくん、と頷く。
 いつもの元気な水姫を考えると―――めったに見る事の出来ない
 しおらしい姿だ。
 そして、重い口を―――開く。
 いつも思う。
 ホントに―――申し訳ない、と。

 【水姫】―――うん、…ごめんね、気持ちはとっても嬉しいんだけど
     ボク、好きな人がいるんだ―――



 静寂があたりを支配する。
 そしてきっかり五秒後に―――裁判判決を聞いた男子生徒が
 弾けたように――そして自嘲気味に口を開いた。

 【男子生徒】そ、そうか、そうだよな、はは、
        じ、時間とらせちまったな。
 【水姫】ううん、ボクこそごめんね。
     でも、キミのことが嫌いなわけじゃないんだ。
     これからも友達でいてねっ。

 これは本当に水姫の本心ではあるのだが―――少年にとっては、
 残酷な優しさであろう。
 これまでどおりに接することが出来るのかどうか――それは
 この男子生徒次第ではあるのだが。

 【男子生徒】お、おう。―――そ、それじゃな。

 そのまま、玉砕した男子生徒はくるりと踵を返して
 屋上から去っていった。

 【水姫】…ごめん、ね―――。

 自分を想ってくれるのはとても嬉しいし、その想いに答えたい。
 だが、自分には―――自分の心にはとても大切な人が「いる」。
 「いる」。
 「いる」のだ。
 だが―――霞がかかったように―――思い出せない。
 確かにこの胸のなかに、「いる」のに。
 いつからだろうか、このもやもやに気付いたのは。
 いつから―――…。
 もどかしくて―――タン、と屋上の手すりをたたいた。
 柔らかい風が水姫の栗色の髪を躍らせる―――。

 ―――と、背後から足音が聞こえた。黒い髪が揺れるのが水姫の
 目に映った。

 【沙姫】水姫―――。
 【水姫】あ、お姉ちゃん。
 【沙姫】これで…交際依頼を断ったのはを5人目だな。

 どうやら―――たまたま屋上に居たようだ。
 先ほどの自分たちのやり取りを聞いていたのか。

 【水姫】何言ってるんだよっ。ボク知ってるよ、お姉ちゃんも
      5人フってるじゃないか。

 聞かれたことに対する照れ隠しで語気を強める水姫。

 沙姫自体、数人からの告白を受けて、ものの見事に振っている。
 水姫のように真綿で首を絞めるような断り方でなく、
 一刀両断、すぱっと。

 水姫にしてはせめてもの反撃のつもりだったが―――

 【沙姫】ははっ―――。私は男に興味はないからな。

 とあっさりかわされた。
 そしてカウンター気味に沙姫の問いが襲い掛かる。

 【沙姫】…水姫、お前の言っていた好きな人、って誰のことなんだ?

 それこそ、水姫が脳内で何度も何度も何度も反芻している、もやもや。
 思い出せない、「大切な」こと。「大切な」もの。
 …「大切な」…ひと…。

 【水姫】…。…分かんない。
 【沙姫】分からない、って―――…。

 どう答えていいのか分からない。でも、大切な何か―――。
 伝えたくても、どういったらいいか分からないもどかしさ。
 思い出そうとすると――ココロが痛い。切なさでいっぱいになる。

 【水姫】分かんないんだよ。でも――、でも、確かに
     ボクの胸<ここ>にいるんだ…っ。なんか、こう…
     ぎゅ、って締め付けられるような、そんな感じで―――

 そんな表現しか、思いつかない。
 だが―――沙姫は怪訝な表情をすることもなく、真摯にその言葉を
 かみ締めているようだ。
 ―――というより、水姫と同じような表情を見せた。

 【水姫】沙姫お姉ちゃん?

 思わず、声をかける。
 沙姫も―――何か思い悩むことがあるのだろうか―――
 心配になってくる。――が、すぐに表情がいつもの凛々しいものに
 戻った。そして、柔らかく微笑む。

 【沙姫】ま、とりあえず―――今日は帰ろう。
     澪もここに来たみたいだし。

 沙姫の指し示す方向―――屋上へあがる扉へ目を向けると、
 澪がドアを開けるところだった。

 【水姫】よく分かるねえ、お姉ちゃん。

 思わず感嘆の声を上げる水姫。
 沙姫は感覚が鋭いのだろうか。それとも―――自分が鈍いだけなのだろうか。
 うー、とちょっとだけ悩んで、すぐに忘れた。
 そして澪の方を見る。知らずに―――笑みになる。
 澪も嬉しそうに駆け寄ってきた。

 【澪】水姫さん、沙姫さん。探しましたよ。
    そろそろ――帰りませんか?
 【沙姫】ああ―――もうそんな時間か。

 いつの間にか―――放課後になってから随分と時間がたっていたようだ。
 屋上からの遠景をすこし眺めて―――、沙姫と澪を振り返った。

 【水姫】うん、それじゃ帰ろっか。

 ―――と、そういえば、帰り支度をぜんぜんしていなかった。
 澪はちゃんと自分の鞄を持っている。
 沙姫を見ると―――沙姫も鞄を持っていない。

 【水姫】ねぇ、澪ちゃん、ちょっと先に行って待っててくれるかな。
     ボクたち鞄とって来るよ。
 【沙姫】ああ―――そうだな。澪、下駄箱で待っていてくれ。
 【澪】あ、いえ、私も一緒に水姫さんと沙姫さんの教室まで
    お供します。せっかく会えたのですから―――
 【水姫】そっか、ごめんね、澪ちゃん。
 【澪】いいえ。

 澪がにっこりと微笑む。この可憐な少女に何度助けられただろう。
 「自分ひとりだけ」の時とは大違いに楽しかった。
 ううん、一人の時でも楽しかったけど、
 澪が「来てから」は食事も楽しくって―――


 …自分、ひとり…?


 【水姫】…あれ?
 【沙姫】ん?どうした?
 【水姫】―――あ、ううん、なんでもないよっ!ほら、早く行こっ!!
 【沙姫】お、おい、水姫、走ったら転ぶぞ。
 【水姫】だーいじょーぶだってー!!

 「自分」ひとり?
          ――――どうして?
 「澪」ちゃんが、来てから…?
          ――――どこに?
 「沙姫」おねえちゃん…は…?
          ――――思い、だせない。

 ―――とりあえず考えながら走ったので、転んだ。


 ■蒼華学園―――教室・放課後■

 【安倉】おー、おかえり。
 【優子】おお、勇者よ、良くぞ戻った。―――って、
     沙姫ちゃんも一緒なんだ。会えたのね。
 【御前】それは何よりでしたわ。

 二人が教室に入ると水姫の帰還を心待ちにしていた
 野次馬三人組が声を上げた。

 【沙姫】―――ん?私を探してくれていたのか?
     それはすまなかったな。
 【安倉】まぁ、水姫から頼まれたんだけどね。
     本人が会えたのなら一番いい結果だね。
 【水姫】ん、ありがとね、安倉ちゃん。
 【安倉】構わないよ。それより―――、
     水鏡があんた達を探しに来てたけど会えたのかい?
 【水姫】うん、来てくれたよ。
     教室の外で待ってもらってるんだけど…
 【沙姫】―――そうだな。あまり待たせては悪いし―――、
     私は先に行っているぞ水姫。

 帰宅準備を先に終えた沙姫が鞄を持って教室を出る。
 うん、と答えて―――自分の席に行き帰宅準備を始めようとすると、
 ずいいいーと斉藤優子が水姫の前に立ちふさがった。

 【優子】聞かせてもらうわよー、結果を!!
     結局どうしたのよ、やっぱり断っちゃったの?
 【水姫】う、うん。

 ちょっと俯き加減で頷く水姫。

 【安倉】確か…D組の山岡だっけ?結構いい顔してると思うんだけどな。
      もったいないね、朝霧。
 【水姫】でも…、違うんだよ。
 【御前】水姫。何事も付き合ってみなければわかりませんわ。
      特に顔じゃないというなら中身でしょう?それこそ―――、ですわ。

 ううん、と首を横に振る水姫。
 山岡とは同じクラスになったことがあるし、クラスが別になっても
 話をしたことがある。一言で言うと実直な少年だ。
 ―――でも。
 ―――違う。

 【水姫】心と…

 ぼそ、と呟くように言葉を零す。

 【御前】…なんですか?水姫。
 【水姫】う、ううんっ、なんでもないっ。
      ―――それじゃ、ボク帰るからっ!まったねっ!!!
 【優子】あ、こら、水姫ー!


 ―――心と心―――魂で繋がっているって事だよっ――


 三人の制止を振り切って―――ついでにこの胸のもやもやも
 振り切って―――、水姫は教室を飛び出し、沙姫と澪の元へ駆け寄った。

 【水姫】ごっめーん、遅くなっちゃったっ。
     ちょっと捕まっちゃってさ。
 【沙姫】ああ、私は構わない。
 【澪】はい、私もぜんぜん。
 【水姫】ん、ありがとね、二人ともっ。それじゃー帰ろー!

 心に立ち込める原因の分からない暗雲を断ち切るかのごとく、
 と言うか、ぶっ飛ばすかのごとく、天高く拳を突き上げた。

 ■朝霧家―――朝■

 【水姫】う、ん…

 小さな声を上げて水姫は目を覚ました。
 何かとても―――寂しい夢。何を見ていたのかさえ思い出だせないが…、
 涙が頬を伝ったあとがある。
 思い返せば―――。
 この胸のもやもやは「夢」を見た時から―――始まっていたように感じる。


 時計を見ると――時刻は8時。
 今日は休みだ。いつも以上にのんびりできる―――。
 そう思いながらもう一度寝ようと枕に顔を埋めようとして、
 何か香ばしい香りが漂っていることに気付いた。

 【水姫】おねーちゃん…もー起きてるのかなあ…。

 もそもそと立ち上がり、部屋を出た。
 そのままの格好でキッチンに行く―――。枕を抱きかかえながら。

 ■朝霧家―――キッチン■

 水姫がキッチンに入ると―――
 やはり香ばしい匂いはそこからしていた。
 そこには沙姫が可愛らしいピンク色のエプロンをつけて
 なにやら朝食の準備をしている。

 【水姫】おはよ〜、お姉ちゃん…。休みなのに今日も早いねえ。

 ふらふらとキッチンに入っていき、一番手前側の椅子にちょんと座り、
 (枕を抱きしめながら)沙姫に話しかけた。

 【沙姫】早いって言っても――、もう八時だぞ。
     水姫も朝ごはん食べるか?今なら一緒にお前の分も作ってやれるぞ。
 【水姫】―――うん。

 とは言ったものの――、水姫は器用に椅子に座ったまま
 半分寝ていた。そんな水姫を起こさないように
 静かに朝食の準備を始め―――水姫が二回目の「ガクッ」をした時には
 水姫用の朝食が出来上がっていた。

 【沙姫】―――ふッ、世話の焼ける妹だ。
     ほら、おきろ水姫。そのまま寝てしまうと風邪引くぞ。
 【水姫】あうー。

 半分夢の中の水姫。それでも香ばしいパンの匂いに誘われてか、
 その一つを手にとって口の中につっこんだ。
 もふもふと美味しそうに咀嚼している水姫の様子を、
 微笑みながら見ていた沙姫だったが―――、少し思い出したように水姫に声をかける。

 【沙姫】水姫、私はちょっとでかけるから―――
      何処へも行かないなら留守番を頼むぞ。
 【水姫】うん、わかったよ。でも―――何処へ行くの?

 このところ―――というか、「事故の後遺症で過去の記憶が無い」沙姫は、
 休みの日になるといつも水姫を置いてどこかに出かけてしまう。
 きっと色々あるんだろうなーと思いながらも、やっぱり妹としては
 知りたいところなのだが―――

 【沙姫】それは…まぁ、秘密だ。
 【水姫】うー。

 あっさりその問いは一蹴された。とりあえず、抵抗の意思を見せたが
 沙姫に頭を撫ぜられ、大人しく引き下がるしかなかった。
 まぁ、―――いつかきっと教えてくれるだろう。
 いつだって、側に居てくれるんだし―――

 そんなこんなで朝食を終え、水姫は自室に戻った。


 ■水姫自室―――AM9:00■

 朝食後、身支度をとりあえず整え終わった水姫は、
 ―――結局行く宛ても特に無いので―――、ベッドに腰掛けていた。
 ぼんやりと窓から見える青空を眺めながら深いため息をつく。
 ため息の理由は言うまでも無く―――胸のもやもや。
 沙姫は<胡蝶の夢>だと言っていた。
 夢が現実で現実が夢で。一体どちらの自分が本当の自分なのか分らない。
 いや、そもそもその「夢」でさえ、夢の内容でさえ良く覚えていないのだが。

 【水姫】あーあ。なんなんだろー…このもやもやした気持ち。

 ころんとベッドに横になる。
 いくら考えても考えても分らない。
 現実は確かにこの日常で、おかしな綻びなんて、ないし―――

  誰も、 忘れ てな い、し、 
      違   和   感  も   な い   。
  何 もおか  しな  と ころ なん  て な   い。

 【水姫】―――痛ッ!

 突如走った一瞬の頭痛に水姫は飛び跳ねた。米神を押さえて摩る。

 【水姫】あ、れ?…なんだったんだろ?もう痛くないや…。
     とゆーか、何してたんだったっけ?

 ぴょい、とベッドから飛び、カーテンを全開にし、窓を開ける。
 心地の良い風が部屋の中に流れ込み、水姫の頬を撫ぜた。
 その風を浴びながら一つ伸びをする。

 【水姫】う〜んッ!!
     いい天気だなぁ。こんな日に部屋の中でごろごろするのは
     ちょっと勿体無いなあ…。

 水姫はポン、と掌を打ってうなずいた。表現が古い。

 【水姫】うん、ボクも外出しよっと。

 わざわざ手を打ってまで決定することではないのだが。
 とりあえず―――服は着替えてあるので―――白いリボンを
 手に取ると、髪に結んだ。

 大切な、白いリボン。

 この白いリボンは水姫のお気に入りだ。気に入っている…というか
 「大切なもの」だ。何故大切なものなのかは…思い、出せない。

―――水姫、これをやろう―――

 【水姫】―――わわっ。

 一瞬気が遠くなってふらつく水姫。ぽふ、とベッドに倒れこんだ。
 やはりどこかおかしいのだろうか。
 自問しながら立ち上がり―――気を取り直して、家を出た。


 ■蒼華市―――市街地■

 何の目的があったわけではない。
 ただ何となく足の赴くままに歩いていると、繁華街まで来ていた。
 ウインドウショッピング、というやつだろうか。
 あれやこれや眺めながら―――街を歩く。
 満たされない何かを探して、街を彷徨う。
 まぁ、そこは年頃のちょっと天然の水姫のことだから、

 【水姫】あはっ、クレープ屋さんだー。

 とか、

 【水姫】おおぅっ、アイス屋さんだー。

 とか、その辺に目移りしまくっているのだが。
 で、結局結構な数の間食をしてしまったせいか、お昼時だと言うのに
 全然お腹がすいていない。
 沙姫には「お昼は好きな物を食べたらいい」といわれていたが―――、
 昼前に既にお腹が満たされていた。
 休むまもなくてこてこと街中を歩いていく。
 ―――と。

 【水姫】…あれ?
 水姫は持っていたアイスを舐める舌を止めた。


 何かが変だ。

 ―――いつの間にか、人気が少なくなっていた。
 ―――いや、人の気配がまるでしない。
 ―――人が、いない。
 ―――赤い。
 ―――周囲が赤く染まって見える。これが、この場所が、まるで
 現実から切り離された世界のように、感じる。
 全身の血が逆流していくような感覚に陥る。

 【水姫】なに――…これ?


 異様な気配がする。
           ―――――知っている。
 赤く光る瞳が揺らめく。
           ―――――知っている。
 低く唸る獣のようなモノが闇に蠢く。
           ―――――知っている!!

 【水姫】う、うわああっ!!!

 水姫は逃げ出した。
 持っていたアイスを捨て、兎に角この場から早く、早く離脱すること、
 それだけを考えて走る。
 走る。
 走る。
 走る。
 走る!
 ―――が、一向に裏路地から出る事が出来ない。
 <陰気の結界>内に取り込まれていたのだ。
 そんな事を知る由もない水姫は荒い息を吐きながら、走る。
 追いすがる黒い影。
 いや、その黒い影はいまや現世<うつしよ>に具現化し、
 そのグロテスクな輪郭をはっきりと映し出している。
 黒い光沢をもった、異形の生物。
 急速に受肉化したため―――、「肉」が足りない。
 その黒い異形の生物は、水姫を「餌」と見ていた。

 【水姫】はぁっ、はあっ、な、どうして―――、
      どうして出られないのッ!!

 ―――キシャアアアア!!!!

 背後からの複数の―――聞いた事のない聞いたことある耳障りな奇声。
 水姫がもうだめだーと思った瞬間。

 ガラスの割れるような音が聞こえ、背後から黒い異形の生物の断末魔と
 思しき声が聞こえた。

 【静謐な少女の声】やれやれ―――。この街も酷いありさまだな。
             前以上に酷くなっている。
 【水姫】―――ッ!?

 静かに響く、凛とした声。靡く青い長髪。
 そして、なぜか巫女衣装。手には刀。
 赤やら青やら白やら単色だが強烈なインパクトのある組み合わせだ。
 今だ取り囲む黒い異形のモノ達を軽く一瞥して
 水姫の方へ歩み寄り、手を差し伸べた。

 【青い髪の巫女少女】―――大丈夫か?
 【水姫】あ、え、う、うん…。ありがと…。

 差し出された手を取って立ち上がる水姫。
 限界を超えて全力疾走した為か、恐怖のせいか、膝の震えが
 止まらない。

 【青い髪の巫女少女】大丈夫だ。私の後ろに隠れていろ。
 【水姫】う、うんっ。

―――水姫、俺の後ろに隠れていろ。―――

 【青い髪の巫女少女】私から離れるなよ。

――俺から離れるなよ。―――

 【水姫】(な、なに…?コレ…)
 【青い髪の巫女少女】はぁぁッ!!

 水姫の思考を遮るように――、
 巫女少女の裂帛の気合があたりを震わせる。
 少女の体から陽炎のような淡い青色の揺らめきが立ち昇ったかと
 思うとそれが一気に爆発するようにはじけた。

 【青い髪の巫女少女】―――封神の剣技みせてやろう。

――封神の剣技、みせてやろう――

 【水姫】(あ、あれ…、どこかで聞いたことある…ような気が…)

 水姫の既視感を切り裂くように―――青い髪の巫女少女が
 地を舞うように駆ける。
 まるで舞踏を演じているかのごとく壮麗な剣技。
 巫女が舞うたびに黒い影が消滅していく。
 それほど時間もかからず、黒い影<異形のモノ>は全て消滅した。
 鮮やかな舞踏剣技。
 いや、それだけではない、どこかで―――見たことあるような…。

 【青い髪の巫女少女】この街も…瘴気が増えてきているな…。
              ―――と、大丈夫だったか?
 【水姫】あ、うん、ボクは大丈夫だよ。

 そうか、と答えかけて―――
 巫女少女は少し驚いたような表情を見せた。

 【青い髪の巫女少女】む?お前―――いや、キミは…前もここで会わなかったか?
              確か同じようにやつ等に襲われて―――
 【水姫】―――っ、ボク、そんなの…

 知らない。
          ――――知っている。
 知らない。
          ――――知っている。
 知らない。
          ――――知っている。
 知らない。
          ――――知っている。

 【水姫】ボク、キミと会うのも初めて、だし、こんな、
      見たことない、変な生き物、も、みたこと、な、い
      ボク、しら、な、知っ、て、る、ない、

 ぐら…と倒れかけた水姫を慌てて巫女少女が支える。

 【青い髪の巫女少女】お、おい、大丈夫か?
               顔真っ青じゃないか。―――歩けるか?
               ―――ここは瘴気が濃い。一旦表の道まで出よう。
 【水姫】ご、ごめんね…迷惑かけちゃって…。
 【青い髪の巫女少女】―――気にするな。私の名は御剣紫苑。
              君の名はなんと言うんだ?
 【水姫】みずき…朝霧水姫。よ、よろしくね、紫苑ちゃん。
 【紫苑】あ、ああ。「ちゃん」は少し照れるが…、こうして出会ったのも
      何かの縁だ、こちらこそよろしくな、水姫。
 【水姫】うん…っ。


 ■蒼華市―――表通り■

 紫苑に支えてもらいながら裏路地から抜け出して―――
 表通りにあるカフェテリアに二人して腰掛けた。

 【水姫】あー、やっぱりなんか空気が違うねっ。
 【紫苑】ふッ、すっかり調子は良くなったようだな―――。
 【水姫】うんっ、お蔭様でねっ。ねえねえ、紫苑ちゃん。
     それよりさ、ちょっと聞きたいことがあるんだけど、いいかな?
 【紫苑】構わないぞ。なんだ?
 【水姫】ん、その格好なんだけど―――なんでそういう格好してんのかな、
      って思ってさ。神社の人なの?

 紫苑は出された紅茶を一口啜って、一呼吸置いた。
 確かに普通はこんな格好で街中をうろうろしたりはしない。

 【紫苑】ま、まぁ、普通はこんな巫女装束で街中を歩かないからな。
      ―――水姫の言うとおり、私の実家は神社なんだ。
      隣の桜舞市にある御剣神社だ。また――時間があったら遊びにでも来てくれ。
 【水姫】うんっ。

 嬉しそうに微笑む水姫を見ながら―――紫苑もつられて笑った。
 いつもは厳しい表情をしていることが多いのだが―――。

 【紫苑】しかし―――水姫は私の友人とよく似ているな。
     特に自分のことを「ボク」と呼称するところとか、な。
 【水姫】へえ〜。そうなんだっ、ボク以外にもそんな人居るんだねッ。
     でもねえ、紫苑ちゃん。紫苑ちゃんも―――
     なんだか雰囲気がボクのお姉ちゃんにそっくりなんだよねっ。
 【紫苑】ほう、水姫には姉が居るのか。
 【水姫】うんっ、双子の…ホントはボクの方が先に生まれたらしいから…
     ボクがお姉ちゃんなんだけど…、沙姫おねえちゃんのほうが、
     しっかり、しているから、あの時、お姉ちゃんに、なって、もらっ…て…
 【紫苑】水姫?

 急に言葉が曖昧になっていく水姫を怪訝な表情で見る紫苑。

 【水姫】え?あ、あっ、そ、そう、お姉ちゃんがいるんだよっ。
 【紫苑】そうか―――。私には少し年上の兄がいてな。
     兄上はすぐにふらっと消えてしまうからいつもいつも心配で…。

 何処か遠くを見ている紫苑。その視線を水姫に戻す。

 【紫苑】まぁ、今は帰ってきているからあまり心配はないのだが――
      この前は約2年くらい音信不通になったことがあってな。
 【水姫】あははっ、困ったお兄さんだねえ。
 【紫苑】全くだ。

 やれやれ、とため息をつく紫苑。そして紅茶を一気にあおった。

 【紫苑】―――さて、それじゃ私はそろそろ行くが―――
      1人で大丈夫か?
 【水姫】うん、大丈夫。色々ゴメンね。ありがとうっ。
      また―――お礼に行くからっ。
 【紫苑】ふっ、礼には及ばんさ。
 【水姫】んじゃ遊びに行くよっ。お姉ちゃんも一緒に連れてくからさっ。
      楽しみにしててね、紫苑ちゃんっ。
 【紫苑】ああ、楽しみにしておこう、水姫。―――それじゃあな。
 【水姫】うんっ、ホントにアリガトねーっ!!

 水姫は紫苑の背中が見えなくなるまで見送ってから、ぐーっと背伸びをした。


 ■蒼華市―――河川敷公園■


 紫苑と分かれた水姫は、1人何をする訳でもなく―――
 河川敷の公園にいた。公園といっても木作りのベンチが均等に
 並んでいるだけのものだが。
 そのベンチの一つにちょこんと腰をかけて川面に映る風景を眺めていた。

 【水姫】いい人だったなぁ…。お姉ちゃんに性格がそっくりだったし…。
     …でも―――

 ―――私の後ろに隠れていろ―――
 ―――封神の剣技、見せてやろう―――
 どこかで、聞いたことあるような気がする。
 どこ―――で、だったか思い出せない、が、聞いたことがある。
 とても大切なことなのに。
 とても大事なことなのに。

 【水姫】…っっ、っ?

 知らず―――頬を涙が伝った。

 【優しい声】あら―――どうしたの?何か悲しい事でも…あったの?
 【水姫】…え…?

 顔を上げると―――そこには心配そうに水姫の様子を覗き込む、
 黄色い髪の女性がいた。自分より年上に見える。
 年のころは…20代半ばくらいだろうか。
 学校の―――咲夜先生に似た感じの女性。
 にっこりと微笑むその表情は全てを包み込んでくれそうな―――
 そんな柔らかい笑顔だ。

 【水姫】あ、う、ううん、なんでもないよっ。
      心配してくれてありがとう、おねえさん。
 【黄色い髪の女性】そう?だったらいいんだけど。
             何があったか分からないけど、元気だして、ね。
 【水姫】うん。見ず知らずのボクに優しくしてくれてありがとうっ。
 【黄坂】ううん、それじゃ、ね―――。

 少し―――寂しそうな表情を見せた黄色い髪の女性は、
 そのままにっこりと微笑んで、その場を去っていった。

 【水姫】誰だったんだろ…。
     でも―――どこかで会った事あるような…気が…

 ―――頭が疼くように痛む。


 時刻は午後5時。

 【水姫】なんだろ…。なんか―――へんだよ、ボク…。

 既視感が沸き起こっては―――「そんなはずはない」と
 それを否定する。自分が一体何者なのか、そんな根底すら―――
 曖昧になってくる。
 ―――大切なもの。
 ―――大切なこと。
 忘れてはいけないのに―――。

 【水姫】…どうして―――忘れちゃったんだろ…

 忘れる…?それは―――覚えていたということ。知っていたという事。
 知らないのに―――?
 矛盾する思考が螺旋のように渦巻いては消える。
 頭が変になりそうだ。

 空を見上げると―――夕日が異常に赤い。
 ―――大気が揺らめいている。
 ―――赤い。
 ―――赤い。
 ―――水姫は立ち上がり―――走り出した。
 ―――なにか、
 ―――胸の奥に―――襲い掛かる津波の如く
 ―――蘇りつつある、「記憶」。

 どくん。

 自分の脈動が聞こえる。

 ―――ずっと、ずっと一緒だよ、「  」さん―――
 ―――ああ、勿論だ、水姫。皆一緒に―――


 どくん。    どくん。
     どくん。    どくん。
      どくん。
 どくん。
 【水姫】―――えん、ご…さん―――…?

 ―――どくん。

 ひときわ大きく心臓が跳ね上がった。

 ―――この、感じ。
 ―――この、気配。
 ―――間違えるはずない。
 ―――いや、
 ―――なぜ、思い出せなかったのか。


 【水姫】どう―――して…

 声が、漏れる。
 ―――水姫は疾駆していた。
 走らずにはいられない。
 あてもないが
 ―――いかなきゃいけないっ。
 一心不乱に走る。
 水姫の頭には

 ―――もう、ただ一つの事しかない!!!

 【水姫】―――焔護さん!!!!