■桜舞市<中央世界>―――午後九時過ぎ■

その日、咲は所用の為御剣神社を離れていた。
咲は留守番巫女という役職名(?)ではあるものの、れっきとした御剣神社の巫女である。
ということで、紫苑の代わりに外出していたのだ。

「少し―――遅くなってしまいましたね…」

夜道を一人歩く咲は小さく呟いた。本来はもう少し早く帰る予定だったのだが、
用事が長引いてしまい、帰宅が遅くなったのだ。
周囲に気を向けながら―――歩く。
深夜、というにはまだ時間帯が早いものの…異様なまでの静けさに
咲はただならぬ気配を感じていた。


霊気―――というより、<冷気>が辺りを覆いつくしている。
初夏だというのに―――、寒気すら覚える。


「まずい…ですね」

―――御剣神社から離れすぎている。
本来土地の精霊であり、御剣神社に括られている咲は
神社から離れれば離れるほど、<能力>―――常人離れした戦闘的な能力が低下する。
感覚に体がついていかないような状態だ。
咲の戦闘能力は現在、ただの普通のおねーさんレベルに限りなく近くなっている。
いや、近所のお姉さん、だ。
つまるところ、今戦闘を行えば―――確実にやられる、ということだ。
さすがに丸腰では無いが。符や、携帯出来る霊的武具は一応持っている。
―――が…。

「戦術的撤退、をした方がよさそうですが―――…」

ちらりと背後に目をやった。そこにいる訳ではない。―――が、近くにいる。
異様な気配を感じる。
全身に突き刺さるような敵意。

「さて―――簡単に見逃してくれるでしょうか…」

血臭が辺りを覆う。
確実に、<それ>は近づいている。
何かを引きずって歩くような耳障りな音が―――確実にこちらに…咲に
近づいてきている。
身構えようと思った瞬間。

「―――ッ!」

何かが頬を掠めて飛んでいき、べしゃり、と音を立てて背後の壁にぶつかった。
見えていた訳ではない。
ただ構えようとしていたから反応できただけだ。いや、反応というよりは、偶然。
何かが来る、と思って上体を少しずらしただけ。

「な、―――…ッ」

咲は背後に落ちた<それ>を見て驚愕した。
投げつけられ、背後でつぶれた<それ>は人間の手。既に半壊し、原型は
とどめていないものの、掌と思しきものが見える。


街灯が数回点滅し、消えた。


それと同時に――――空気がずしりと重くなる。全身を圧迫してくるような、
そして黒い染みが体の中に入り込もうとするような、異様な感覚。
霊的な視覚で見ると…全体が赤っぽい。

「結界…に閉じ込められたようですね…」

結界―――陰気で形成された限定空間。常人であればその場の<氣>にすら
耐える事が出来ないだろう。
咲は――紫苑から母の日に貰った――ショルダーバッグに入っている<符>を
取り出して構え、周囲を探った。
いまだその姿をあらわさない強襲者。
強烈な陰気のせいで場所の特定に至らない。が、ソレは唐突に暗闇から
踊り出て来た。

「シャアアアアアッ!!!!」
「―――ッ!」

<ソレ>は手首から先の無い腕を振り回して―――咲に襲い掛かってきた。
強烈な死の匂い。
襲撃の対処に苦慮する、と言うよりはその姿に―――、
咲は戦慄めいたものを感じた。
先程―――咲を襲った飛来物…、それはこの強襲者自身の、右腕…右手だ。
大きく間合いを取って符を構える。

「これは一体…どういうことでしょう…。屍人<しびと>…?」

人の体でありながら、その<氣>は陰なる氣、<陰気>で
満たされ、陽の氣がまるで感じられない。肉体的に―――堕ちている。
陰気に憑かれている訳ではない。完全に魂魄が陰氣に塗りつぶされている。
異形のモノそのもの。ただ外観と、肉体自体が間違いなく、人そのものなのだ。
こんな異様なもの相手に―――、御剣神社から離れすぎたこの地での戦闘は難しい。
残りの符でこの場を収めなければならないが―――、相手の正体も分からない。
戦術の構築に苦慮する。

「シャアッ!」

そんな事はお構いなしに―――襲いかかって来る屍人。
闇雲に振り回すその攻撃は鍛錬されたものではないものの、
その一撃一撃が途轍もなく重い。衝突したアスファルトが抉れている。
ただ加減も何もあったものでないため、屍人自身の指もあらぬ方向に曲がったり、
吹き飛んだりしている。
だがそれも単調な動きと見切り、軽やかなバックステップでかわす咲。

「動きは単純―――ならば、っ!」

大鎌のような一撃をかわし、懐に飛び込む。

「百花繚乱神氣悉く散華せよ―――」

綺麗な咲の額に―――、一瞬赤い印が浮かび上がる。
掌底の応用で屍人を2〜3mふっ飛ばしながら、符を貼りつけた。

「壱式・緋桜花!」

祝詞は一種の起爆装置のような物だ。撃鉄を引くような感じで、
起動呪の言霊を発する。符に収斂されていたエネルギーに点火。
呪言が回路を走り、効果を発揮する。
その瞬間―――符を起点として閃光が走った。
紅い花弁が散るような様。
が、その閃光を突き破るように―――襲い掛かってくる屍人。
予想外の反応に―――屍人の体当たりをかわす事が出来ず吹っ飛ばされる。
飛ばされた威を後方一回転で殺しながら、着地する咲。
それでも更に少し後ろに滑る。単純なタックルではあるが、助走距離に
反して恐ろしいほどの威力だ。

「そ、んな…っ」

着地し―――相手を見て咲は愕然とした。
その体は咲の符で吹き飛ばされ、既に原型を留めていない。腕は四散し、
両足も爛れているというのに―――、動いている。

「ア゛ア゛、ア゛ア゛ア゛」

顔面はケロイド状にめくれ上がり、頬が破けて口腔が暗い闇を作り出し、
窪んだ眼窩の奥に、まるで生者を呪うような赤い瞳が、見える。
半分に力なく開かれた口元からは涎がボタボタとアスファルトに落ちている―――。
まるで―――というか本当にゾンビそのもの。
しかも―――、眼前のゾンビの背後に…さらに複数の気配まで感じる。

「―――く…、これは本当に…まずいですね…」

す、と額を撫でた。
今は消えているが、いつも<印>があるところ。
秘術である限定結界内での神氣強制解放。約二十秒の神通力行使。
この際―――解放後のリスクを考えている余裕はない。
ここでやられてしまう訳には、いかない。
問題は二十秒で相手全てを制することができるかどうか、だ。
逃げるのは一番手っ取り早いが、この場を収集しないまま、というのは
どうにも気が引ける。

「やむ終えません…!」

咲が解放の詠唱に入ろうとしたその時、ガラスが割れるような音が鳴り響いた。
瞬間に周囲の空間が塗り替えられる。
陰気で構成された結界が別の結界によって張りなおされた。
清浄な<氣>が当たり一面を覆い尽くす。

「こ、これ、は―――?」

第三者の介入。しかも結界を上書きするような技を使う術者に――
咲は心当たりがない。
主である御剣久遠…いや、護りに特化している形態の焔護地聖ですらここまでの
術式の書き換えは出来ないのではないだろうか。
そういう意味でも、咲は改めて身構えた。



高位の術者がいる。


背後で―――コツ、と足音が響いた。