■アクエリアスゲート―――翌日■

「てえへんだてえへんだてえへんだーーーーー!!!」
だだだだーーーーー!と爆走する足音と奇怪な叫び声が
だんだんと焔護いる部屋に近づいてきて、まさに、後一歩のところで
叫び声―――というか、悲鳴になって再び遠くへいった。


どうやら沙姫がぶっ飛ばしてしまったようだ。
やれやれ―――と、焔護は重い腰を上げ、ドアを開けた。
「―――沙姫、気持ちはわかるが…問答無用でぶっ飛ばすのは
あまり行儀がいいとはいえないな」
「一応問答したのだがな。いつものように訳のわからない事を言って
お前の部屋に入ろうとしたから成敗した。」
成敗した、といいながら、視界の端のほうに見え隠れする―――
今にも息絶えそうなボロ雑巾状態の―――マスターを見た。
「て、てえへんだ…親分…。」
「…俺からすれば…あんたが親分なんだがな」
「―――私がやっておいてなんなんだが、お前のその状態のほうが
大変だと思うぞ」

■アクエリアスゲート―――応接室■
「いやー、死ぬかと思ったよ。」
「いっそのこと死んでくれたほうが世界の為じゃないか?」
恐ろしい事をいう沙姫。しかもさらりと。言い放つ沙姫の目は本気だ。
本気と書いてマジと呼べるレベルだ。
「いやいやいやはやー、それでも私をここまでボコボコに出来るのは
  紫苑ちゃんと刹那ちゃん、そんでもって沙姫ちゃんくらいだよ〜」
どこか嬉しそうに語るマスター。
もはや変態の領域をずっと前に突破しているようだ。
変態の神の領域にステイ中だ。
「そう…、なのか」
そう言えば、焔護がマスターを殴り飛ばしているのを見たことが無いな、と
思いながら―――沙姫は茶を啜った。
「臨死の恍惚は病み付きになりそうだよ〜」
あっはっは、と笑いながら―――マスターは焔護に通された応接室の
ソファーに座って、澪が入れた紅茶を勢いよく啜る。
勿論大半の予想通り、ずずずずー、と音を立てて、だ。
で、
「あっづー!」
猫舌だった。
「あぁっ、ご、ごめんなさい、熱すぎましたか…!!」
給仕していた澪が慌ててタオルを投げた。
いや、投げたというより差し出した。それを丁寧に、卒業証書を
受け取るようにして、顔を拭く。
「澪、大丈夫だ。マスターは極度の猫舌なだけだ」
焔護は―――ふと、マスターと一緒に喫茶店でコーヒーを飲んだ事を
思い出した。今回と同じように、コーヒーは吹くわカップは
ひっくり返すわで大変だった記憶がある。
理由は思い出せなかったがとにかく無意味に大暴れで、
店の物を壊して弁償していた覚えがある。勿論弁償代はマスターからだったが。
そんな――いつもの異様なマスターを怪訝な表情で見ている沙姫。
「―――焔護、なんでコイツは私の技をまともに喰らったのに…
  こんなに元気になっているんだ?先ほどまでぼろぼろだったのに」
沙姫の問いに―――、焔護は苦笑した。
正直な所、マスターの<仕組み>は焔護にもよく分らないのだ。
マスター固有能力である<事象改竄能力>を使って回復した訳でもないし、
そんな形跡も無い。
さあな、と両肩を竦めて―――いまだ舌を外気に曝して冷やしている
情けないマスターの姿を見た。
「ねえねえ、それで―――マスターさんは何しに来たのさ?」
焔護の横に座っていた水姫がわざわざ挙手しながらマスターに質問する。
「ひゃーひょっよひょひゃっひゃひょよひょにひゃっひゃー!」
「きゃっ。」
マスターの奇怪な声に――、改めて冷たいお茶を淹れていた澪がびくついた。
別に何かをされた訳ではない。
ただその奇妙なマスターの行動に、気の小さい澪が吃驚しただけだ。
言うまでも無く澪を庇うように―――沙姫がマスターを
それはそれはものすごい形相で睨みつけた。
「舌を引っ込めろ。なにを言っているのかわからんし澪が怯えているだろう」
「んー、多分…本日はお日柄もよく…って言ってるんじゃないかな?」
「水姫、そんな訳無いだろう…」
本気なのか天然なのかよく分らない水姫の解答に―――やれやれ、といった
感じで沙姫がツッコミを入れる。が。
「―――せいかい!よくわかったねえ、水姫ちゃっはーんっ!」
「なに!当たっていたのか!?というか当然のように
  水姫に飛びかかろうとするんじゃないっ!」
一刀両断!
いや、さすがに両断はしなかったが、沙姫の拳が顔面に<めしゃり>と直撃し
マスターは再びもといた位置へと押しやられた。
「いぢぢぢ…ナイスキック」
「拳だ」
「いやいやー、しかしさすが水姫ちゃんだ!キミと私の間にはきっと
  想像もつかない色鮮やかな糸が繋がっているに相違ない!」
「また訳の分らんことを…!もしあったとしてそれはおぞましい色だ!
  そして―――例えおぞましい色であろうがその糸全部断ち切ってやる!」
マスターの超天然ボケと沙姫の必死のツッコミ。いや、沙姫は真剣なのだが。
あ、いや、マスターも真剣なのだが。
その横でおたおたしている澪と、ぽけーと見ている水姫。
その水姫が焔護の袖を引っ張って小指を見せた。
「ここの赤い糸は焔護さんと繋がってるんだよ。ワイヤー製だから切れないんだ。
  例え百人ぶら下がっても大丈夫だよ」
「…そうか、どこかのCMのようだが…それは嬉しいな」
「あの…私も…焔護さんと繋がって…います」
控えめに、澪が主張する。水姫の直球勝負な主張もとても嬉しいのだが、
澪のその控えめな主張が焔護の心を擽るというものだ。
勿論、沙姫の照れながら―――というのもなかなかこれはこれでよいのだが。
「そうだな。ま、その話はゆっくり後でするとして―――、沙姫」
「な、なんだ…?」
「その辺にしておいてやれ。話しが進まん。」
「あ、ああ―――…」
焔護の言葉に―――漸く沙姫はマスターの胸倉を掴んでいた手を離した。
言うまでも無くマスターは既にボコボコだ。顔面が数箇所陥没しているように
見えるのだが、…これはもともとの仕様だ。
ぐったりとした様子でソファーに沈み込むマスター。時折痙攣を起している。
「あ、あの―――大丈夫ですか、マスターさん…」
心配そうに覗き込む澪。それがマスターの視界に映った瞬間、復活した。
復活。
まさにその言葉がぴったり。凹んだピンポンだまを熱湯に入れたような。
再生とかそのような次元ではない。一瞬にして復元した。
「ひゃっぽー!澪ちゃーん!!心配してくれてあり」
澪と、マスターの間に―――マスターは澪に飛び込もうとしている―――
再び沙姫が立ち塞がった。
いかなる時であろうと、妹たちを護る。それが沙姫の使命!と言わんばかりの
形相と、昂ぶる<氣>。拳は硬く握られている。
「―――死ね。」
「ちょ、ちょっと待て沙姫!殺すな!そいつにはまだ聞きたい事が」
物騒な言葉が飛び交う。
言葉も飛び交っていたが、既に沙姫の「拳」も飛んでいた。
しかも連撃。
「ありありありありありありありーーーー!!!」
よく分からない言葉を発しながら殴られるマスター。
おそらく―――先ほどの言葉尻、「心配してくれてあり」の「あり」を
連続して発音しているのだろう。
がつん、と最後の一撃を額に受けて、―――マスターはもんどりうって倒れた。
「ありーう゛ぇでるち…ふっ、ふふっ…ぜ、んぶ紙一重で避けたが…
  なかなかのパンチだね、沙姫ちゃん」
「全部直撃していたぞ、マスター。」
焔護の的確なツッコミに対して、マスターはてへっ、とばかりに
頭をこつん、と叩いた。
言うまでもなく、沙姫には完全殺意が芽生えてしまったが、焔護がそれを制した。
ついでに救急箱を持ってきた澪も制した。
面白そうに(何処から持ってきたのかわからない)木の枝でマスターを
つついている水姫も、制した。
「そろそろ本題に入ってくれないか?マスター」
「う、そ、そうだったねえ。つい楽しくって」
「ねえ、焔護さん、マスターさんって殴られたり痛めつけられることに
  快感を覚えちゃう結構危ない人なの?」
当然の質問だ。ここまでぼこぼこにされておきながらこれを
楽しいとのたまっているのだから。しかも笑顔。
「ま、確かに危ない人には代わり無いが…」
「そーいうこと」
「ひ、否定しないんですか…?マスターさん…」
少し焔護の陰に隠れながらおずおずとつっこむ澪。勿論その横には
沙姫が今にも抜刀しそうな勢いで―――スタンバイしている。
「いや、だから話をだな…」
「あー、いいなぁ焔護くんはさー。こんな楽しげなところで
  一緒に生活できるんだからー」
「えっへへっ、羨ましいでしょ〜。」
「こら、水姫、話の邪魔をするんじゃない。一向に話が進まないだろうが」
わしっ、と水姫の豊満な胸を掴む。心地の良い弾力が焔護の掌全体に伝わる。
その掌を―――というか、指をもにもにと動かした。
「あんっ、ごっめーんっ。だって羨ましがられたから、んっ、
  嬉しくってさ。ああんっ、ダメだって、胸は弱いんだからさー!」
恍惚にも似た表情の水姫。
「おおおほううううう!!!みっ、み、水姫ちゃんの綺麗な胸を鷲掴み…!
  うらっ、うららっ!えんっ!うらーー!」
未だ水姫の胸を揉み続ける焔護をより一層羨ましそうな
瞳で見ながら、5本の指をわさわさと奇怪に、未知の節足動物の足のように動かすマスター。
「おい、お前も同じことしたら…、手首から先がなくなると思え」
「ぴぃっ!」
いつの間にか抜刀していた沙姫の刀が冷たく光る。
羞恥と憤怒の入り混じった複雑な表情だ。
「―――で。」
漸く水姫の胸を解放した焔護は、今度こそ聞く体制をとった。
ソファーに腰を下ろして、足を組んで、手を組む。
どこかえらそうな格好だが―――マスターのほうが、えらい。
えらい、という表現が的確かどうかは、この際保留としておく。
「何があった?」
「そ、そうそう―――大変なんだよ!」
ごくり、と唾を飲んで、動悸を抑えるマスター。
「だから何があったんだ」
「―――天津甕星が消えたんだ」

ようやく本題に入った。