■朝霧家―――朝 水姫自室■

【水姫】うーんっ。

朝霧水姫は大きく伸びをして、カーテンを開けた。
柔らかな朝日が部屋に差し込んでくる。
大きく深呼吸をして、朝の空気を体内に取り込む。心地のいい朝。

【水姫】ふあー。今日もいい天気だっ。

窓から見える風景を瞳に映して、水姫は嬉しそうに頷いた。
何が嬉しいのか分らないが…、きっと天気がいいのが嬉しいのだろう。
そして再び、ベッドに腰を下ろして…またウトウトと舟を漕ぎ出した。
―――と、ドアがノックされ、ゆっくりと沙姫がそのドアを開けて
中に入ってきた。そして、しかめっ面を作る、沙姫。

【水姫】んあ?

いまだ半分寝ぼけ眼の水姫。
さっき吸い込んだ朝の空気は何処に行ったのか疑問に思うくらい、
寝ぼけた顔をしている。

【沙姫】―――水姫、起きてるか?
【水姫】あ、あー、沙姫おねーちゃん、おはよっ。
    どしたの?そんなに急いで。
【沙姫】あのな、水姫。
     ―――今何時だと思っている?
【水姫】へっ――――

あわてて時計を見ると、長針は12のことろ、短針は、
短針は―――

【水姫】あわーーー!八時っ!!!!うそっ!
【沙姫】嘘じゃない。
    早く仕度しないと学校に遅れてしまうぞ。
【水姫】あーっ、沙姫お姉ちゃんもう制服着てるっ!!ずるいようっ!
    ずるいずるいー!!
【沙姫】ずるくない。澪ももう玄関で待ってるから早く支度しよう。
    ―――ほら、ばんざーい。

言われたとおり、水姫が万歳をする。
その隙に――すす、と水姫のパジャマを脱がせた。
豊満な胸がぽろりと零れ落ちる。―――自分と同じサイズ、同じ形の胸だが、
沙姫は少し紅くなって視線を別の所へ泳がせた。

ちなみに、別に水姫が一人で着替えができないわけではない。

【沙姫】…水姫、下着は?
【水姫】うん、今日はこのピンクにしようと思ってさっ。
【沙姫】そうか。
    ええと、制服は、と―――、ほら。早く着た方が良いぞ。
    もう時間があまりない。
【水姫】うわうわっ!!

慌てながら用意し―――その手がふと止まる。

【沙姫】どうした、水姫。

水姫の長い髪をゆっくりと梳かしながら、沙姫が尋ねた。
いつになく―――、神妙な水姫の面持ち。
艶やかで流麗な水姫の髪は櫛を途中で止めることなく先端まで流れる。

【水姫】…夢を―――見たんだ。長い、長い夢を―――。

ん?という顔で水姫をみる沙姫。

【水姫】とっても楽しいんだけど、最後は寂しい夢―――…
    はっきりとは思い出せないんだけど、なんかホントの事みたいで、
    でも、夢で―――。今が夢で、夢が本当みたいで…。
    ―――あははっ、何言ってんだろ、ボク。
【沙姫】胡蝶の夢――…か?

ぽたり、と、水姫の太腿に雫が落ちた。

【沙姫】み、水姫…?
【水姫】…あれ?なんでボク…泣いてるんだろ?なんでだろ?あれ?

知らず、水姫の頬を一筋の涙が伝っていた。



               ――――水月譚 最終話 「それから」―――



■自宅―――玄関■

朝霧家の玄関にはいつものように澪が水姫と沙姫を迎えに来ていた。
それは澪にとっていつもの事であり、水姫と沙姫にとっても
いつもの、日常だ。
そんな澪が待つ玄関へ向かって、二階から階段を駆け下りる水姫。
その後ろを、ちょっとはらはらしながら沙姫がゆっくりと降りてきた。

【水姫】澪ちゃーんっ、ごめんねまたせちゃって!
【澪】おはようございます、水姫さん。お気になさらずに。

にっこりと微笑む澪。その横を、手を振りながら一旦キッチンに向かう水姫。
後からやってきた沙姫が澪に近づく。

【沙姫】すまないな、いつも。これで5日連続だ、水姫のギリギリ登校は。
    いつも迷惑をかけているな―――澪。
【澪】いいえ、私も朝こちらにお邪魔するの楽しみにしてますから
   お気になさらないで下さい。

沙姫は、ふ、と笑って澪の頭を撫ぜた。猫のような仕草をする澪。
そこへ焼いたパンをくわえた水姫が走ってやってきた。
今時登校しながらパンを食べる高校生がいるだろうか。いや、ここにいた。
その希少生物は、パンを咥えながらも澪に向かってにぱっ、と笑って見せた。
…器用だ。

【水姫】おまたへっ!
【澪】ふふっ、行きましょうか。
【沙姫】少し―――急がないと間に合わないかもな。

時計を見ると、当たり前の事だが先ほどから更に時間が進んでいる。
そしてまた一つ、時が進む。

【水姫】うわああっ、ホントだっ!

慌てて三人は登校した。


■街中―――朝■

【水姫】むむー!

食パンを咥えたままで走る水姫に続いて、沙姫、澪も走る。
同じように登校している学生たちが何事かと水姫達を見て―――
「ああ、朝霧達か」と、どこか変な納得をしている。
自宅から水姫達の通う高校―――蒼華学園はさほど遠くない。
歩いても10分くらいの所にある。
家を出たのが8時10分過ぎたくらいだから、十分間に合うのだ。

【澪】み、水姫さん、今日はそこまで走らなくても間に合うと思いますけどっ!?
【沙姫】そうだぞ、水姫っ。早足くらいで間に合う。
    だから大丈夫だ、落ち着け。
【水姫】むぐー!

いつもの事ながら、水姫に振り回される澪と沙姫。
いや、それを心地良いと感じてしまうのは何故だろう。
そんなむぐむぐいいながら走る水姫を追って走る。

【澪】あ、あの、沙姫さん…
【沙姫】ん?
【澪】私―――いつも思うのですが、
   走りながらパンって食べられるのですか?
【沙姫】…無理だな。いつも学校に着いてから食べているし。
    この登校中には確実に食べてない。いや、食べられない。
【澪】で、ですよね…。

そんなむぐむぐな水姫を追いかけて走る。
そのまま勢いで曲がり角に差し掛かったとき――――、

【沙姫】―――危ないっ!!
【澪】あっ!

曲がり角から出てきた通行人に―――どん、とぶつかった。

【水姫】きゃぅっ。

とさっ、としりもちをつく水姫。宙を舞う食パン。三回転した。
全てがスローモーションに見える。
その食パンを―――ぶつかられた男が優雅な手つきでナイスキャッチした。

【青い髪の男】――――大丈夫ですか?

す、と手を差し伸べる。にこやかな男の表情。
全てを包括するような、そんな柔らかい笑顔に、一瞬水姫は戸惑った。
戸惑った、というよりは、その一連の動きがあまりにも
流麗だった為―――、見とれてしまったのだ。
――はっ、と我に返り、その差し伸べられた手を取って立ち上がる。

【水姫】あ、あ、―――ありがとっ…。
【青い髪の男】申し訳ございません、少し考え事をしていましたので。
         お怪我はありませんか?
【水姫】うう、大丈夫っ。ボクのほうこそごめんなさいっ。
    ちゃんと前見て走ってなかったです。
   
じゃあどこ見て走っていたんだ、という話だが、それは置いといて。

【水姫】お兄さんは怪我とかしてない?
【青い髪の男】―――ええ、私は大丈夫ですよ。

そりゃそうだ。水姫と違って別に転んでいないのだから。
それでも、笑みを絶やさず、答える男。そこに慌てて駆け寄ってきた
―――というか、沙姫も澪もさっきから走っているが――、
…水姫に追いついた沙姫が謝り、澪は深々と頭を下げた。
にっこりと微笑む青い髪の男。

【沙姫】すみません、妹がご迷惑をおかけしてしまいました。
【青い髪の男】いいえ、こちらこそ。
         はい、キミの朝ごはんでしょ?

手渡された食パンを卒業証書授与式みたいな仕草で嬉しそうに受け取る水姫。
そんなに大きくない。普通サイズの食パンだ。

【水姫】うんっ、ありがとうっ。
【沙姫】―――さ、行こう。ホントに間に合わなくなるぞ。
【澪】それでは、失礼します。

先に歩いていく沙姫を追いかけていく、澪。
だが―――水姫は呆然とその場に立ち尽くしていた。

【青い髪の男】どう―――しました?お連れの方々は行かれてますよ?
【水姫】あっ、いえ、えーと…っ。
    その、ボク…貴方と…どこかで―――会った事…無いかな?







【青い髪の男】――――え?










その言葉に、一瞬驚きの表情を見せる青い髪の男。
すぐにもとの静謐な顔に戻り、ゆっくりと首を横に振る。

【青い髪の男】…いいえ。
【水姫】そ、そうだよね、ボクったら―――なに言ってんだろ…っ。
    えへへっ、ごめんなさいっ。
    ―――それじゃ、さよならっ!!!
【青い髪の男】―――ええ、さようなら。

たたた、と駆けていく水姫。



【青い髪の男】さようなら。





          ―――さようなら、水姫、澪、沙姫―――。





一陣の風が吹いた。



■街角■

三人が駆けて行った後―――、
空間がゆがんだかと思うと、変な男が滲み出るように現れた。

【男の声】―――久遠くん。

青い髪の男に呼びかける。
久遠、と呼ばれた青い髪の男が優雅に声の主に振り向いた。

【久遠と呼ばれた青い髪の男】マスター。
                  どうやら強制同一はうまくいったようですね。
【マスター】うん、まあいろいろ大変だったけど。
      記憶を封印して、<対存在>と同じ記憶領域に変更してから合一を
      実行したんだけどね…。
【久遠】それはご苦労様でした…。
【マスター】まあ、任されたことだからいいんだけど、沙姫ちゃんだけは
      本来ありえない存在だから世界に情報を書き込むのは大変だったよ…。
      とりあえず、うまくいったから、結果オーライだけどね。

にこっ、と笑うマスター。あんまりかわいくない。
そんなことよりも、とマスターが久遠を見た。

【マスター】どう、そっちは。実家の―――神社の方は。
【久遠】ええ、大丈夫ですよ。
    もともとしっかりした留守番巫女がいますし、妹もいますからね。
    神社の管理は問題ありません。
【マスター】そう。それはよかった。
【久遠】ただ―――妹が、ね。
【マスター】?
【久遠】いきなりいなくなっていきなり戻ってきたでしょう?
    また私が居なくなるかもしれないと思ってずっとくっついて…。
    まぁ、兄冥利に尽きますが。

ふふっ、と笑うマスター。

【マスター】なんだか、焔護くんの時とは大違いの性格だね。
      同じ人間と思えないよ。
【久遠】まあ、私もそう思いますが、どちらも私です。

あの時、<焔護地聖>の存在すべてをかけて<闇――岩山田>を封滅した焔護は
マスターの力により助けられた。
ただ、焔護地聖の<力>はすべて失っており、焔護を継ぐ前の姿、
御剣久遠に戻ったのだった。




■回想―――漆黒の闇■

光の粒子の中――――、一つの影が、その中に浮かんでいた。

【焔護だった者】これはこれで―――仕方が無いですね…
         岩山田を完全に消滅できただけでも良しとしましょう―――。

焔護地聖は消滅しかけの自らの体を見て呟いた。
天照の能力を全解放した上で封神流禁忌奥義<三柱神舞降開闢界>。
禁忌とも言える広範囲への情報分解は岩山田はおろか、
―――術者自身の彼でさえ消滅させようとしていた。
もう――上半身しか残っていない。
とりあえず、やらなければならない事は成した。
気がかりな事が無いとはいえないが―――(元)焔護は満足していた。
ゆっくり目をつぶる。

静かだ。
無音の闇が辺りを支配している。



水姫や澪、沙姫達、それに妹や実家のことは気がかりだが、
あとはマスターに任せよう。
何だかんだいいながら、マスターは信頼できる。



このまま消え行くのも―――…





―――と、幽かに人の声が聞こえたような気がした。



【少女の声】――――なッッ!!!
【もう一つの声】早く!!!急  で!!間に合  なく っち  う!!!
【焔護だった者】(…だれ、です―――?何故―――ここに人が…)

途切れ途切れに聞こえる声。最早聴覚も失われつつある。
聴覚どころか―――意識自体朦朧としていて―――確かに聞いたことある
声なのに、思い出せない。

【少女の声】…に え、   け  ます!  !
       月   !私  を与   ! !


―――眩しい光に包まれたところまで覚えていたが―――







―――次に目を覚ました時は、布団の上だった。

■和風の部屋■

焔護は体への圧力によって目を覚ました。
薄く目を開けると―――、青い髪の少女が縋るように自分を揺さぶっている。
さっきからの圧迫感はこれだったのか。
そう思いながら―――重い目蓋を開かせる。

【少女の声】兄上…兄上…!
【巫女】―――久遠様…!!
【マスターの声】お、目を覚ましたみたいだ。おーい、私が分る?
        「久遠くん」。
【  】―――う、…わ、私は―――…

(元)焔護はゆっくりと起き上がると、あたりを見回した。
そこは見覚えある懐かしい生家―――御剣神社の一室―――
そして、横を見ると、マスターと、妹の紫苑と留守番巫女の咲が
心配そうな表情でこちらを覗きこんでいた。

【紫苑】よかった…兄上、意識が戻ったのですね…
【咲】よかった…本当に…

ぼろぼろと涙を流しながら喜んでいる留守番巫女・咲と、
妹の紫苑。

【  】し、紫苑…?咲さん…?―――な、なぜ…?
    私は確かに…天照の能力で―――
【マスター】紫苑ちゃん、咲さん、ちょっと席外してくれるかなぶはあああっ!?

マスターの顔面に紫苑の拳が突き刺さった。
そのまま勢い良く部屋の端に吹っ飛ぶ。

【紫苑】何故私がお前の頼みを聞かなければならないんだッ!
    こうやって兄上が目を覚ましたのだぞ!!!
    私は―――!!!私は―――…!!
    側にいたいんだっ!!それくらい察しろバカ!
    二年ぶりに会ったんだぞッ!!
【  】し、紫苑、気持ちは…ありがたいですが、その人と少し話しがあります。
    少しの間で良いですから、暫く席を外していただけませんか?
    二年…音信普通だったのは申し訳ないですが…。
【紫苑】―――くっ、あ、兄上がそう仰るのなら…仕方ありません…!

唇を噛み締めながら、立ち上がり大人しく部屋を出て行く。
その前に、マスターに蹴りを一発入れていたが。
そんな紫苑の後について―――咲が部屋を出て行った。
紫苑と咲が部屋から出て行ったのを確認すると、マスターがうめきながら
よろよろと近寄る。

【マスター】あ、あのさ、もう少し優しくしてくれるように言っといてもらえれば
      ありがたいんだけど?
【  】善処しておきます。それで―――
【マスター】あ、うん。えーと、ひとまずご苦労様。
【  】…いえ。それより―――、一体どうなったのです?
    私は確かに…天照の<力>で消えかけていたはずですが…。
【マスター】端的に結果を言うと、<天照>が情報分解した物を再構成できる
      <月読>の能力を使って元に戻した、ってこと。
      それから…多分まだ気付いてないと思うけど、<焔護地聖>の
      <力>は再構成できなかった。だから…今のキミは焔護地聖ではない。
      ということだよ、「久遠」くん。
【久遠】―――ッ?

驚きの表情で―――鏡を見る焔護。いや、久遠。
そこに映されていたのは…焔護地聖の姿とは対極的な―――、
物静かで、青い髪、青い瞳をもつ「元の姿」、御剣久遠だった。
<焔護地聖>とは、<焔護地聖>の<能力>をもった<御剣久遠>だ。
ややこしい話だが。
そして、御剣久遠は焔護地聖と違って、静謐、丁寧、紳士的、とこれまた性格的にも
正反対なのだ。ついでに言葉遣いも丁寧だ。

【マスター】水姫ちゃん達をこちらで受け取ったときに座標確認できたから
      空間にリンクを作ってね。―――で、迎えにに行ったんだよ。
      まあ…行ったときには既に決着はついて、キミは消滅しかけてた。
      そこで紫苑ちゃんを無理矢理連れてきて、月読の発動を。

月読―――焔護の持つ霊刀天照の対となる神具。
その特性は、天照によって情報分解されたものの「復元」。
焔護はその月読の能力の発動で助かったという訳だ。

【久遠】―――そう、ですか…。水姫―――達は?
【マスター】大丈夫だよ。いろいろ事象操作をして―――問題なく生活している。
      …ただ…、ゲートにいた時の記憶は―――封じてあるけどね。
      ゲートにいた時の記憶は対存在との合一に障害が出る可能性がある。
      対存在の記憶を優先させて合一させたよ。
【久遠】…。そのほうが…、いいでしょう―――。 
    結果として―――私はあの子達との約束を護れなかった。
    辛い思い出を残すよりは、忘れてしまった方がいいですしね―――。


■そして再び現在■

―――まじめな顔になるマスター。

【マスター】ゲートはすべて消滅した。
      魂魄の加護による五封結界が展開されているとは言え――――
      おそらく、これからこの中央世界は魑魅魍魎が跋扈する
      世界になるだろう。
      その時に、キミの<力>は必要だ。よろしく頼むよ―――
【久遠】ええ。
    焔護地聖の<力>はなくなってしまいましたが、
    この世界は私が守ります。―――この世界も、あの子達も。
    
焔護地聖であった男―――御剣久遠は空を見上げた。














駆けていた足をぴたりと止め、水姫は振り向いた―――。
そこにはもう人影は無い。…柔らかな風が髪を揺らす。

【沙姫】――――どうした、水姫。
【澪】…なにか…ありましたか?
【水姫】あ、ううん…。
    ―――なんだか…何だかよく分らないんだけど、今―――










―――すごく懐かしい匂いがしたんだ―――。


                                          水月譚終劇
                                                Watery saga episode5-水月譚-